『ブルースカイ』

 
 
 いつの日からか、「米国に居たことがあるならさぞかしゴルフが上達したでしょうね」という不躾な質問に「いやゴルフに対して興味を失いましたから」と答えるようになった。思えば6年前にペブルビーチで、屈辱的な記録を出してから、意欲を失ったのかもしれない。大体こちらがゴルフを好きかどうか以前にゴルフに好かれていない。今でもたまにグリーンに出るものの、ギャンブルの一環かハイキングと割り切っている。
 この言い訳を正当化するためには、なるほどと思わせる趣味を持たなければいけない。というわけで、地上のグリーンを楽しむことに対して、空の青さを楽しむこととした。もともとオイルショックの余波で航空3社がパイロット採用を見送った年であっため折角潜り込んだ当時唯一のエアラインパイロットへの登竜門であった航空大学校を入学式だけで断念した(入学金払込寸前)という経歴を持っているため、空への想いは人一倍と自負をしている。
 小学生の頃は、将来の夢はと聞かれて、「科学者になるんだ」と訳のわからないことを言ってラジオを作って級友へ売りつけるというバイトをしていたが、中学2年のときには模型飛行機飛ばし(Uコントロール機、後にラジオコントロール機)に興じ、将来はエアラインパイロットになるしかない、と思い込んでいた。高校3年で念願の運輸省航空大学校の1次、2次試験をパスし、最終難関の適正試験である3次試験を宮崎で受けた。2時間ほどビデオで「操縦の仕方」の講義を受け、午後から班に分かれ乗って頂きます、と言われ、思わず隣の人と「ん?シミュレータじゃないの」「何言ってんだ、本物飛ばすんだよ」と会話。ともあれ単発飛行機を試験官を載せ4回ほど飛ばし、「やっぱり俺は適正がある」と唯我独尊、無事合格。選択制の入学月を8月にセットし、滑り止めで合格していた4年制大学に暇つぶしに通った。いよいよ8月に入学金と授業料を持って宮崎本校へ飛び立ったが、全寮制の同室の先輩に、不景気で今年は誰もパイロットに採用されなかった。この先もどうなるか、他の選択があるならラインパイロットの道は諦めた方がいい、と言われ弱気に。翌朝には一人で決断して入学金払込前に帰途についた。第1のショック。
 4年制の大学へ復学し、空への夢を捨てきれずに学生パラシュート連名に入会、1回3000円程で飛び降りながら、同時に大学の少林寺拳法部へ。途中入部でありながらも何とか2段まではとったところで、何と夢は小学生時代に抱いた「科学者」へとカムバック。研究費がふんだんに使える電電公社(当時)に入社し研究者となろうと。3年生から始め、当時ハシリであった学習塾の経営が順調であったが後輩へ譲り、大幅ダウンの収入も気にせず電電へ入社。研究者なら転勤も無いだろうし。しかし人事担当は「貴方は研究者というよりは....」の一言で事業部門へと。翌週には即座に金沢転勤。第2のショック。
 それから20年余り、研究者ならぬエンジニアの道から出発し、技術開発延べ十年、設備投資4年、人事2年と来たところで、NTTも国際化の道へ。30代も半ば過ぎになってから人事担当からの命令により、留学。わたしゃパイロット諦めた時からマルドメ希望だよ。留学初日から1割も他人の発言がわからん。第3のショック。
 そして帰国、2年後、やはり米国勤務の辞令が36時間ノーティスで発効。唯一のインセンティブが「20年以上前に諦めたパイロット、自家用でも実現できるかも」。
 

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